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2011年3月27日 (日)

2011年3月11日東日本大震災の一日(個人的備忘録 その1)

3月11日(金)の大震災の当日、私は千代田区の職場に勤務していた。会社のビルは昨年竣工した新しい20階位の建物で、その5階に居た。

最初の揺れは大きな横揺れで、いつもとは違う大きなものだった。ただ、すぐに机の下に潜り込むほどではなく、ほかの人達も どうしよう、どうしよう・・・という感じだった。隣りに座っている男性は普通に電話を続けていた。かなり長かったので、自分は「これは本当の関東大震災かな」と思って、やっと机の下に潜り込んだのはだいぶ経ってからだった。

揺れがいったん止んだので机の下から出てきたら、


再び揺れが・・・・・。本気でやっぱり酷いので机の下に再度潜り込む。机の下には会社から支給されているヘルメットと軍手がおいてあるので、2回目はヘルメットを被る。ヘルメットを被ると机の下は窮屈で、私が入るのがやっと。体の大きな男性ならば潜り込めないぐらいかもしれない。

あとで報道された内容だと少しずつ震源が違う地震が3回あったというが、とにかくずっと余震が続くような感じなので何が何だかわからない感じだった。言われてみると確かに3回大きく地震はあったと思う。

すぐに館内放送があり、エレベーターを使わずにビル内に居るようにとの指示があった。すぐにテレビをつけるが、すぐにはここまで凄い巨大地震だったとはわからなかった。そのうち、しばらくすると九段会館で死亡事故が発生したと報道が始まった。うちのオフィスは比較的近い場所だ。確かにすごく古いビルなので、天井が落ちることはいかにもありそうだなと思った。自分のビルのフロアは、新築のこともあって大きく揺れたものの、特に物が落ちたことはなかった。

やがて東北地方の壊滅的な映像がテレビで伝えらえるようになってきた。仕事は地震後もずっとしていたが、やがてテレビに皆が集まるようになり、車がどんどん流されていくような目を疑うような映像でびっくり。やっと、事態の深刻さを理解してきた。これは、本当にただ事ではない。

そのうち、やっと会社では4時半過ぎ位に「本日は帰宅が困難が予想されるので、自由に帰ってよい」という指示があった。ただ電車がやっていない。今は3月末決算で仕事が山積みなので、しばらく仕事に励む。同僚の女性がビルにあるコンビニに買い物に行ったところ、軒並み食品関係は売り切れ! このあたりは食品を売っているお店がほとんどない場所にて、帰宅ができないとなると籠城覚悟?

私の使っている鉄道は本日中の復旧はないとみたので、5時過ぎには徒歩で帰宅する方向で考えるようになった。地図で見ると20キロはない。ハーフマラソンの距離もないので、十分歩ける距離だろう。問題は、この日はヒールはないものの、やや歩きにくいブーツを履いてきていることだ。普通に歩いていても歩きにくいのに、10数キロも歩けるかな?ただ、靴連れをするような感じの歩きにくさではないので、なんとかなるだろう。道は概ねわかっているが、念のために文庫版サイズの地図も持って万全。

それで、職場の人がまだ多く居残る人が多いなかを、歩くのならばなるべく明るいうちに歩き出したいので、5時40分に会社を出た。会社を出てびっくり 遮音性のあるビルのせいで外の音が少ししか聞こえてこなかったが、あたり一面騒然。九段会館のせいもあるが、救急車やパトカーのひっきりなしの音が・・・・・。それに駅に向かう人達の多くの人波。整然とたくさんの人が歩いている。ヘルメットを被って歩いている人もいる。歩きだしてみるとやっぱり歩きにくいブーツだった。でもなんとか歩ける程度か。

最寄りの駅まではまずまずの速度で歩けたが、その先の交差点で主要道路が交差する個所では大渋滞。警察官も交通整理をしているが凄い人並だった。公衆電話に人がたくさん並んでいるけど、これは何?と思っていたら、公衆電話の方が通話が優先されるという事実を忘れてました。幸いに会社から固定電話で実家には1度だけ連絡がついていたので安心していた。

新宿までがまずはうちへの第一関門。新宿の高層ビルが聳え立っているのがだんだん近くなってくるのがとても嬉しかった。人波が多くて、歩道は左右共にぎっしりなので、進行速度はかなり遅かった。新宿の東側に近づくにつれて、大きな交差点は警察官が誘導していたり、救急車や消防自動車が一杯いて、騒然とした様子だった。ビルの上からの落下物のために歩道が一部閉鎖されている個所もあった。

やっと新宿駅近くに到着したのが約1時間弱後。大きな掲示板にはTVニュースが流されている。今ここまで来る時には、携帯からのネットは切断多数。JRが引き続きやっていないことだけは間違いない。引き続き歩き続けることにした。道は単純に青梅街道をまっしぐら。

歩いていると、どうしてもトイレに行きたくなる。コンビニでトイレ途中を借りることもできるけど・・・・・、中野坂上でレストランをやっている山スキー関係者のHEIDIさんのレストランの前を道は通っている。とっくにお店はやっていないと思っていたら、道の下を通るとHEIDI氏の姿が見えた。階段を上っていくとドアは閉まっていたけど、ドアを叩くと氏が出てきた。奥様もいらっしゃった。久しぶりでちょっとわからなかったかなあ?MINMINって名乗ると、ちょっとびっくりだったみたい。 

恐縮ながらトイレをお借りして、しばしおしゃべり。道は大渋滞で、車が動かない状態。それに歩道をひっきりなしに歩行者が通るので、ガレージから車を出すのも憚れる状態とのこと。7時頃だったので、もう何時間も帰宅するのを見送っているとのこと。山手線の中よりも少しは車は動きだしていたけど、それでもまだまだこの辺りは激しく渋滞。

この先、あと2時間か3時間ぐらいかなあ・・・・と思いながら、再び歩き始める。トイレに行ったので、やっと少し水分補給しようとコンビニに入ってホットココアのペットボトルとチョコを購入。こうなるとハイキングの行動食みたいな感じだ。食料はおにぎりやパン類はないお店が多かったようだが、まだこの時点では少しはあったような気がする。

環七を越すあたりになると車の方はやや流れ始め、人波も若干減ってのでスムーズに流れる感じになった。このころから携帯のネットはつながりにくいが、ツィッターはつながることに気付いた。ちょっとしたつぶやきをしたところ、反応があり、とても励まされた♪ また、自分の身近な情報がツィッターならば案外入手できることに気付く。家にいてテレビなどで情報をつかんでいる人が問いかけすると答えてくれるような・・・そんな感じだ。

環八を越すと、やっとヤレヤレ。荻窪駅ではバスが運行されていることがわかり、これに乗ると歩行時間を短縮できそうだ。道は都心ほどの渋滞ではないが、それなりなので、そう遠くないので歩いて帰ることにした。どこも長蛇の列の公衆電話もようやく公衆電話ボックスで空いているところを見つけて、実家には自宅に歩いて帰っていることを連絡。もうあと数キロという地点。テレフォンカードを入れて会話をしたが、あとで考えるとカードの度数が全く減らなかったので無料だったようです。途中で実家の携帯にメールしたのは届いていなかったという。

会社を出てからちょうど4時間後の9時40分に自宅到着。少し休憩した分などを控除すると、実質3時間半位が行動時間か・・・・・。あとで新聞などで読むと、一般的に徒歩による帰宅圏内は20キロが目安という。すごい人波を考えると通常よりも遥かに時間もかかるし、それに今回は震源地よりもかなり遠いという好条件を考えると、20キロは納得。もっと震源に近かったら、ビルの崩落や道なども歩きにくいと思うので、20キロでももっと過酷になると思う。自分の場合は20キロ以下だったので歩いて帰れたが、どこで被災するかによっては、いろいろと考えるべきことが多いだろう。

(ひとまずの自分への備忘録:帰宅後以降は後日書くかもしれません。)

 

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